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長崎尚志 INTERVIEW TAKASHI NAGASAKI 01

長崎尚志さんインタビュー

前編

漫画を読んではいけなかった時代、唯一許されていたのが手塚治虫だった

――長崎さんは、子どものころからの手塚治虫さんの漫画がお好きだったと伺いました。手塚さんに対してどんな印象を抱いてらっしゃったのでしょうか。

 僕が子どものころは、子どもは漫画を読んじゃいけなかったんです。全国の教育者やPTAが「簡単に内容がわかってしまうし、読むと馬鹿になる」と唱えていた時代でした。例えば、横山光輝さんの『鉄人28号』は、リモコンで動くので悪いやつが動かすと悪くなってしまうからダメ。(平井和正原作/桑田次郎作画の)『8マン』という漫画も人気があったんですが、タバコのようなかたちをしたエネルギー(※体内の電子頭脳や原子炉を冷却するためのタバコ型をした強加剤)を吸うので「子どもが(真似をして)タバコを吸うんじゃないか」と言われてダメ。そうやっていろんな理由をつけてダメだと言われていたんですが、手塚治虫さんの作品だけは読んでいいと言われていたわけですよ。ところがちゃんと読むと、内容が難しいうえに虚無的な話など、子どもが読んだらまずい内容もたくさん描いてある。児童向けの漫画じゃないんですよね。僕はそれが面白かったんですが、一方で心の中では「PTAや教育者はちゃんとこの漫画を読んでいない」と感じていました。だから、“子どもの中の大人”に向けて描いている漫画家というイメージでした。

――『鉄腕アトム』との出会いについて教えてください。

 『鉄腕アトム』は『少年』という雑誌に載っていたんですが、月刊誌なので高くて自分の小遣いでは買えなかったんですよ。病気になって病院に行くと置いてあるんですが、付録だけで本編がなかったりもしました。それである日、親から『少年』を買ってもらっているような(裕福な)子と友達になるしかないと気づいたんです。『少年』が発売になるとその子と遊ぶんですが、実はその子をほっぽらかして、『鉄腕アトム』を読んでいたんですけどね(笑)。そんなことで、『鉄腕アトム』を本誌で読んだのはわりと後期からなんです。

――『少年』に載っていた他の漫画も読まれていたのですか?

 『少年』には『鉄人28号』や、白土三平さんの『サスケ』も載っていまして。筋が通った漫画が多かったから、読んでいて面白かったですね。

――そうやって漫画を楽しんでいた子ども時代の経験が、出版社に入って漫画編集者になるという道に繋がったのでしょうか?

 いや、繋がっていかないです(笑)。途中から漫画より(文字の)本が好きになってしまって。ただ、出版社を志望したのは“本が好きだから”という理由ではなく、「早起きをしなくていい」「背広も着なくていい」「髪の毛も比較的自由だ」と聞いたからなんですね。それで入社試験を受けたら、受かっちゃったんです。入社した当時、漫画はあまり読んでいなかったのですが、「自分が好きなのは手塚治虫さんと白土三平さんだ」と言ったら、その話を聞いていた重役が、そのふたりを青年誌に出して成功した創刊編集長で……。それで(漫画誌の編集部に)配属されたというだけで、「漫画の編集者になろう」という気持ちは全然ありませんでした。手塚治虫さんと白土三平さんは好きでしたけど、他はとくに読んではいなかったので(笑)。

長崎尚志インタビュー前編1

“担当は悪いクジ”だと思われていた天才・手塚治虫

――その流れで、手塚治虫さんのご担当になられたんですか?

 手塚さんの原稿を取るためには、人生を犠牲にしなきゃいけないんです。“原稿を平気で落とす人だ”という伝説があって、手塚さんの担当は6ヶ月で家が建つといわれるくらい残業が多かったんですよ。そうすると、「家庭を持っていなくて暇だろう」という若い人間を担当につけるわけです。それだけの条件で担当にされたので、“悪いクジを引いた”という感じでした。周りから「かわいそうに」と笑われるんですよ。
 実際に手塚さんと会ってみると、仕事をしていないときは優しくて面白い人なんですが、そういった(悪いくじという)評価も嘘じゃなかった。ものすごくアドレナリンを出して、寝ずに仕事をしないといけない職場でしたね。

――当時と現在で、漫画作りにおける編集者の作業は何か違う部分があるんでしょうか?

 漫画家によってスタイルは違いますが、編集者の作業は今も昔も変わらないですよ。ただ手塚さんは、漫画家のスタイルという意味では、編集者との打ち合わせを一切しない人でした。自分で勝手に描く人なんです。まあ、天才ですよね。でも、サボるために打ち合わせだと称して編集者を呼んで、「Aがいいですか、Bがいいですか」と(内容に関する質問をして、担当編集者に)選択させるんです。その質問にうまく回答した担当の原稿から描くんです。もし選択を間違うと、手塚さんは「ちょっと考えさせてください」と言って、その編集者が担当する原稿を後回しにするんですね。僕はわりと正解率は高かったんですが、それだけでなくて、その「ちょっと考えさせてください」を言わせないために「こっちが正しい」と説得するんですよ。すると、意外と話を聞いていただけて、僕のところの原稿を早く描いてくれましたね。いろんな雑誌の編集者が(手塚さんの仕事場に)いっぱい溜まって原稿を待っているなかで、他の人をどう出し抜くか……という世界だったんですよ。時には、同じ会社の先輩を出し抜いて順番を変えさせちゃうこともありました(笑)。自分のズルさを知ったのが、一番の思い出ですね。

――仕事で手塚さんと関わるようになって、印象の変化はありましたか?

 天才はわがままだと思っていたから、とくに印象の変化はなかったです。ただ、僕が手塚さんと大喧嘩しても、編集部の上の人たちからは何も言われなかったんです。(手塚さんは)尊敬されているけど信用はされていない人だったので(笑)。あの手塚治虫と大喧嘩できたのは、ちょっと楽しかったですね。担当している最中は、身の回りに手塚さんの漫画がたくさんあったので読んで楽しんでいたんですが、担当を離れてからは1年半以上、手塚作品を読めなかったですね。あんな生活はもう嫌だと思って。僕にとって手塚さんはそういう人でした(笑)。

長崎尚志インタビュー2

(取材:2023年5月)

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