――まずは、浦沢さんと『鉄腕アトム』との出会いについて教えてください。
4、5歳くらいのときに親が2冊の漫画を買い与えてくれたんです。1冊が『ジャングル大帝』で、もう1冊が『鉄腕アトム』の『地上最大のロボット』でした。それをずっと読み続けて、しまいには模写をしだして、最後に「手塚治虫」って書いて。その漫画に手塚先生のサインが書いてあったので、それまで模写していたというわけです(笑)。
――『PLUTO』の原作である『地上最大のロボット』というエピソードは、幼いころから手塚作品に触れてきた浦沢さんにとって、どんな存在ですか?
子どものころから、この漫画はいわゆる“金字塔”だと感じていましたね。『鉄腕アトム』は漫画の世界全体に君臨する作品なんですが、その中の『地上最大のロボット』を読んだときに、「生まれて初めてこんなに切ない話を読んだ」と感じたんです。まだ生まれて何年も生きてないのにね(笑)。その当時、子どもが読むようなものは他にもありましたし、テレビでアニメも観られる時代でしたが、その中でも際立って切ない読後感を味わったことを覚えていますね。
――どういった部分に、特別な切なさを感じていらっしゃったのでしょうか。
最初に読んだときは子どもだったので、そのときの気持ちを何と表現したらいいかわからなかったんです。でも時を経て、自分の成長とともに少しずつわかってきた部分があって。それは、おそらくこの話が「正義は勝つ」というかたちで終わっていないということですね。子どもが読む漫画だと、勧善懲悪の話がわかりやすいじゃないですか。でも『地上最大のロボット』はそうじゃなくて、何とも言えない胸をぐっと鷲掴みにするような感じがあったんです。勝っても全然嬉しくないし、戦いというもの自体に意味がない。この違和感を、子どものときにすでに感じていたんだと思います。
――そんな浦沢さんが、2003年に『地上最大のロボット』を原作とした『PLUTO』の連載を始めることになりましたが、その経緯を教えてください。
手塚先生が、物語上ではアトムの誕生を2003年4月7日にしているんです。現実世界でその日が迫っている時期に、手塚プロダクションから「漫画界をあげてアトムの誕生を祝うような企画を考えないか?」とアナウンスがあって、小学館の編集者から「参加しませんか?」と声をかけられたんですね。でも『鉄腕アトム』は日本の漫画の礎であり、国産テレビアニメーション(1話30分の本格連続アニメ)の第1号でもあるので、パロディ漫画を描いたり、ちょっとしたトリビュートのイラストを描いたりするくらいで済ませていいのかなって思ったんですよ。それで僕が勢いあまって、「『地上最大のロボット』をリメイクするくらい気骨のある漫画家はいないのかね?」と言ったんですよ。そうしたら、そのとき来ていた編集者たちがみんな「自分でやればいいじゃないですか」と言ってきて(笑)。僕は「そんな大それたことはできないよ」と話して、その場はいったん終わったんですね。そのときはあくまで他人事のように言っていたんです。
でも、その1週間後くらいに、当時一緒に組んで漫画作りをやっていた長崎(尚志)さんが打ち合わせに来て、「『地上最大のロボット』のリメイクの話をしたんだって?」と言うんですよ。そのまま、いつもの漫画の打ち合わせのように「あのゲジヒトっていう刑事ロボットがかっこよかったね」「ゲジヒト目線であのドラマを語ったら面白いんじゃないか」と話が広がって、いろいろアイデアスケッチみたいなものをしているうちに、すごく面白いと思えるものができてきた。すると、これを他の人に渡すのは嫌だなという気持ちが芽生えてきたんですね。せっかくだから今描いたラフデッサンをもう少しちゃんと描いて手塚プロダクションに送ってみようか、ということになったんです。
そして、半年以上経ったある日、手塚眞さんから「浦沢さん、ごはんでもご一緒しませんか」と連絡が来たので、楽しそうだなと思って「ぜひ」と返事をしたんです。楽しくお食事をしてお酒も入って気楽な感じになっているところで、「じゃあ浦沢さん、よろしくお願いしますよ」と言われたんです。僕は「何がですか?」って聞き返したんですが、そうしたら「『PLUTO』に決まってるでしょ」とおっしゃられるので、「え!?」とびっくりして(笑)。あれをやるんだと、そこで知ったんです。
いわゆるトリビュート漫画みたいなものは当時まだなかったし、特に『鉄腕アトム』のような作品をリメイクするなんて前例がなかったわけですよ。でも、やるということになって、あまりのプレッシャーに急に具合が悪くなっちゃってね(笑)。若い世代の方には想像しづらいかもしれませんが、『鉄腕アトム』というのは、ひとつの漫画とかアニメとかいう次元ではなく、僕らにとってはとんでもなく大きな存在なんですよ。
――具合が悪くなるほどのプレッシャーがあるなか、実際に連載が始まったときはどんな状況だったのですか?
全身、蕁麻疹に襲われました。実はその前から、体を壊していたんですよ。『20世紀少年』を描いているときに左肩が脱臼したみたいになってしまって、漫画家引退もちょっと考えていたくらいでした。肩が痛くて漫画が描けない状態でしたから、それまでものすごいペースで仕事をしていたんですが、そこで大きくペースダウンしたんです。だから『PLUTO』を描くとなっても、まず自分の体がもつだろうか、という心配があって……。『PLUTO』を連載することになったビッグコミックオリジナルは隔週誌なので、本来なら月2回掲載なんですね。でも月2回での連載は難しいということで、月1回連載というかたちでやらせてもらうことにしました。それでも自分の体がその重労働に耐えられるかどうか……という状況で始めたんですよ。ですから心はプレッシャーで、体は長年漫画を描いてきた疲労が相当溜まっているような、心も体も満身創痍の状態で、描けるのか、続けられるのかという感じではありましたね。
――連載が始まって、周囲からの反響はやはり大きかったのでしょうか?
Twitterなどが始まる前の時代でしたが、描き始めたらまず古くからの友人から連絡がありました。それから通りすがりにファンの方から声をかけられたり、いろんなケースがありましたね。当時5人くらいから「なんで僕(私)が一番好きな作品を知っていたんですか」と言われたんです。僕と同じように、『地上最大のロボット』が心の中心にあるという読者がいっぱいいたんだなとわかりました。Twitterもそうですが、一人が声をかけてきたら、その後ろには同じような人が何百人といますからね。
(取材:2023年4月)